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ものづくりが好きな塾講師のブログ

今週はずっと起きては片付け、帰ってきては片付け、を繰り返している。
どうしてこんなにも私は片付けをしているのだろうか。

この箱には何が入っていたのだっけ、と箱を開く。
中には10年前に、いや、もしかしたらもう少し前かもしれない、2004,5年頃の手紙が出てきた。それ以外にも15年前の手記や落書きも出てきた。私はどれもこれもかつてコンビニのゴミ箱に捨てたように思えていたのだが丁寧に保存されていた。前に学生を終えて、勉強机を手放した際、机の引き出しの奥という仕舞う場所がなくなり、この箱へと移したのだろう。

手紙の主たちは勿論それなりの仲だった友人たちからのもので、不意に読み返してみると17,8歳を必死に生きていた彼らがありありと思い出された。それなりの世界でそれなりの苦労を重ねていたことのわかる手紙で、ああ、そうだ、この文のこのくだりがなんとも言えぬ哀愁を持って心に残っていたなあなどと思い出す。

開かぬままの手紙もあった。かつては読み返していたであろう手紙であったが、それは本当に捨てたと思っていた手紙で、別段今更捨てようとも思わず、しかし、開こうとも思わず箱の奥へと再び仕舞った。
当時の私の精一杯の隠し場所だったのかもしれないし、単に置き場に困っただけかもしれない。今となっては連絡もほとんど取らなくなってしまったかつての友人たちをそおっと思い出すためだけの紙媒体だ。

ふと気付いたのだが、手紙があるということは、私がかつて返信した、もしくは先に送った手紙がこの世の中のどこかにあるはずで、彼らはそれをとっているのだろうか。かつての私がどんなふうに生きていたか記された紙媒体のそれが誰かの引き出しの奥に眠っているのだろうか。彼らは同じように私のことを思い出したりするんだろうか。

でも、
それはないと思う。私はちっぽけで、彼らの大切な一人でもなんでもない。私はそれほど自信がない。私は私だけが大切にしてやれば良いのだと思っているからそこになんの不満もない。いつの手記を見返しても私の字は汚く、他人から見たら読みづらいだろう。もう燃やされているかもしれないし、古紙としてどこかで活躍しているのかもしれない。

日記や手紙はやっぱり捨てられずに在る。これらはどうしていったら良いのだろう。時間の経過と共にどこへ仕舞えば良いのだろう。

ぼうっとしていた。隣にあったギターに触れて少し弾く。今夜はギターを弾くには未だ寒い。10年と言う月日を思い返していた。色んな人が通り過ぎていった。色んな人が私に伝えてくれた。その上に私が在るのだと、ぼうっとしている脳の奥底で感じた。私はこの今の私を何かの形で表現してみたいと少し思った。