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ippuku

ものづくりが好きな塾講師のブログ

夏目漱石の「こころ」を今更読み切った。
高校二年生の頃だろうか。『こころ』の感想文が高校の課題に出た。まるで読む気のなかった私の代わりに、寝ても覚めてもベッドにいる母親が喜んで読み、感想文を仕上げた。それに目を通しもせずに高校に提出した。(評価はBだった。)

十年経って急に読み始めた。これがなかなか面白い。高校生の時に読んでしまったなら、おそらく読み返さなかったはずなので、あの頃に読まなくてよかったような気もする。

過去に其れ程価値があるのだろうかとこの本を読んでいて思わされた。
子どもと接する仕事をしているからして、よくこの子達の年頃の自分はどうだっただろうかと振り返るのだけれど、いつもそれは母親の病室のような狭い4.5畳の部屋へ行き着いて終わる。そしていつも心濁して思い返すのを止めてしまう。

今も覚えている、かつて弟の部屋だったあの場所には安っぽい男の子向けのカーテンが付けられ、オフィスで使われるような金属の本棚が設置され、折りたたみベッドが折り畳まれることなく横たわり、消毒液の臭いが充満した部屋。
崖の下にあるせいで光が差すこともなく、ブラウン管の小さなテレビはいつだって付けっぱなし、点滴台がドアの前でいつも邪魔をする。
ベッドの上の可動式の机にはいつだって物が散らばっていた。

そんな光景ばかりを思い出す。何年も毎日見てきた光景だ。ベッドの主は母親で、ぼうっとテレビを眺めている。時にベッドの端へ腰掛けて話をする。どんな話をしたかは思い出せるのだけれど、病気による幻覚の様子の話がまず思い出される。

私はここら辺でいつも思い返すのを止めてしまう。現在、この過去を思い出す価値がわからないからだ。書き留めることも止そうと思っていたが、『こころ』を読んだので書き留めてみた。でもやっぱりよくわからない。

この手の話は人の同情を引くことによって私に利益が齎される場合のみよく使われた。今はほとんど使わない。歳をとって、現在の私の在り方に過去がそんなに関わらなくなってきたからだ。こうして過去の事柄と私の距離が年月とともに引き離されていって、私の構成要素から少しずつ欠けていく。私は私が望まなかった過去の事柄と分離していって、別の個体となっていくような気分だ。

小学生と話していた。彼女は「今日は先生に人生相談をしてばかり」と呟く。大人と子ども、学校の先生と生徒の壁について話を聞かされていた。(私は塾の先生だから彼女にとって多少別扱いのようだった。)どこに境があるのか、どうして大人はごめんなさいと言わないのか、どうしてすみませんでしたという謝罪になって子どもに対してきちんと向かい合わないのか。そんな台詞が彼女の口から次々と出てきた。
そして、
大人になっても子どものときのことを忘れたくないとも言っていたような気がする。これは話のだいぶ後の方だ。正直、話半分にしか聞いてなかったので内容はよく覚えていない。

子どもの頃の記憶が積み重なって今になるから、決して無くなることはない、忘れていくことがあっても大人の自分の構成要素となるのだから不安になることはない、と言っておいた。

私は、少しの嘘を言った気がした。
過去から遠のいていっている私の台詞ではない気がした。
彼女が安心したようだからそれはそれで良いのだけれど、丁度『こころ』を読んでいたせいかどことなく引っかかって夜になってしまった。

最後に私は彼女に伝えた。
それだけいろんなことを考えているのであればどこかへ記しておいたらよいのではないかと。
日記は続かないから…と言う彼女に、毎日書く必要はない、書きたいときに書きたいだけ書けばいい。二日に一回でも三日に一回でも、一ヶ月に一回でもいい。それだけいろいろと考えているのなら後に残しておいてみたら、と伝えたら彼女は満足気に帰っていった。

いつも生徒からの話は耳から入って抜けていく。碌に覚えていない。私は私のことで考えるのは精一杯だ。

自己肯定をすることができたほうがきっと幸せなのだから、人からの評価は、まあ大切な時もあるけれど、それに縋ってばかりでは本当に幸せになれないかもしれない。大人の評価ばかりで一喜一憂するのではなく自分で自分を肯定してあげたらいい、そんな話もした気がする。

結局自分自身に伝えている言葉なのだろうと思う。

今日話していた彼女からの台詞でしっかりと覚えている一言は「先生はいつだって楽しそう」。
とても光栄だった。