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ものづくりが好きな塾講師のブログ

どうしてカメラで撮りたいと思うのか。

どうしてカメラで撮りたいと思うのか。

カメラが出てきた時代、美術界は震撼したと言う。今まで絵を描くことを職としていた彼等はカメラに取って食われると思っていたらしい。そう考えると、絵描きは現実を写し取る職人に過ぎなかったわけで、当時のアートは人が何か描きたい!表したい!と言う望みから表現していたものではないようだ。なんてことを美大で学んでおいて知った。まあ今の時代に生きていれば、絵を描くことがカメラに取って喰われることもなく、アートとして生き延びて行ったことは自明だし、周知の事実である。さて、最初の疑問に戻る。どうして人々は写真を残しておきたがるのだろう。

それは日記を書きたがる感情に似ているのだろうか。自分の生きていた記憶として、文字で残しておく。何があったかを振り返ることができる、だからイメージと言う強い印象を残すことをしたがるのだろうか。なんて考えてみたけれど、カメラを構えた瞬間に私たちはそんなこと少しも思っていないと思う。日記を書くことは時間のかかることであるからして、考える時間がたくさん用意されている。今日という過去を振り返り、細かく書き出し、なんて言葉でまとめておこうか、なんて考える。でもカメラは違う。明るい場所で撮影をすれば、1/4000秒で撮ることだって可能だ。そんな短い時間に人間の思考など追いつけるはずがない。じゃあ私たちは普段何を考えてカメラを構えてしまうのだろう。

一年前、実家に転がっていたNikonのカメラを手に入れた。D40と言う古いモデルであり、そんなに高価でもない一眼レフである。このカメラを使うようになってから構図や絞りを考えるようになった。今、D40を持って出歩き、撮影する理由は、面白い構図が撮れるか、とか、どんな条件だとどう撮れるのか、面白い被写体になるものがないか、わりと目的ははっきりしているように思う。それは絵を上手く描けるようになりたい、と言う気持ちとさほど変わらないように思う。
Nikonを持ち歩く前はコンデジを使っていた。オートフォーカスが大変遅く、旅行や飲み会に持っていく程度だった。持っていく理由は後々に部活のホームページに載せようかな、とかまあその程度の意図だ。載せるために撮る。でも目的は明確だった。

さて、その前はと言うと携帯電話で撮っていた。今回はここに注目したいと思う。前回の記事でも書いたが、携帯電話、今で言うガラケーにカメラ機能が十年ほど前に付いた。当時、まだフィルムの使い捨てカメラは世の中から忘れ去られていない時代だ。誰もがカメラでいつでも撮影できるようになっていった。今まで、きれいだなあと思うだけであった光景を手軽に写真に収めることができるようになった。誰かに見せたいとかそんな欲望の前に携帯電話を取り出してカシャリ。誰にでも経験あることだと思う。次第に、カメラを持ち歩いている感覚に慣れていった。何かあれば携帯電話を取り出す。でも当時はSNSもなければ、画像をメールで送信するのに一分とかかかっていた時代である。なので直接誰かにたまに見せる程度の写真である。あと注目したいこととして、20年も前ではないが、その頃にプリクラが出てきた。これも気軽に写真の撮れるツールだ。しかもその場でプリントしてくれる。当時はかなり画期的だったと思う。幼心にポラロイドカメラに憧れた時期でもあり、プリクラには感動した記憶がある。そんなお手軽カメラ達の登場によって写真を撮る意義や理由が変わっていったのだと思う。咄嗟にカメラを取り出し、カシャリとする。目の前の光景は保存できるのが常になった。ここにいた証拠、誰とでも共有ができる光景、あの人といた証拠、それを頭の回路を通すことなく写真にしていく。

私はこうして文章を書いていて、なんとなく答えが見えてきた気がする。ああ、もちろん、答えを探すためにここにこうしてずらずらと書き連ねることを始めたわけなので、答えを持って書いていたわけじゃない。もうすごく雑な感じだが、写真を撮ることは本能に近いんじゃないかと思う。視覚情報を保存したがる、他人に伝えたがる、それは存在意義の確認に似ている気がする。だから本能っぽい、そんな気がした。

でもどうしてだろう、いくらでも写真を撮る。一度の存在意義じゃ物足りないかのように。1/4000秒で掴む存在意義はあまりにも軽く、もっともっと連続して多くの写真を撮らなければ存在しないんじゃないか、そんな風に急かされている感がないだろうか。

写真を撮っている時の記憶は、カメラを持っていない時の記憶より薄いらしい。なんだか本末転倒で面白い。カメラって凄いもののようで凄くないのかもしれない。