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ippuku

ものづくりが好きな塾講師のブログ

飲み込まれるような眠さである。バスの中も電車の中も気持ちいい。特に電車の中は足元のヒーターが心地よい。かつての電車はヒーターが床まで貼り付いていて、足を後ろにできず、荷物も置きにくかったが、今は違う。ヒーターが浮き、椅子にくっつき、なのに性能は変わらず足元を暖めてくれる。塾への道中、混んだ電車内、幾度乗り換えても着かない職場、寝てしまえばどこまで連れて行かれるかわかったもんじゃない。寝ないよう必死である。すぐに乗り換えとわかれば、何か作業を、と言う気にもならず、こうして携帯電話を手元で弄くりまわすだけである。音楽を聞いているから人々の声は遠い。電車の走る音だけで充分なのにどうして彼らは話すのか。嗚呼、眠い。しかし次に停まる駅で乗り換えねばならないのだ。行きはバスから電車を乗り換え一回と数えると、三回の乗り換えで済むが、帰りは六回乗り換えねばならない。何故か。バスがないからだ。バスがなければ三回も乗り換えが増えてしまう。しかもどれも10分程度しか乗らないとなると作業もおちおち出来ぬ。
ところで、伏魔殿と言う言葉、恥ずかしながら20になるまで聞いたこともなければ意味も知らない言葉だった。伏魔殿と言う言葉が好きなわけではないが、よく頭を掠める単語の一つである。何故だろう、何故、脳裏に掠めるのか。誰もが伏魔殿に陥る穴を持っていると思う。いや、そんなことは誰しもわかっていることで、かと言って私がそれについて一般的であるより深く研究などしたことなんてないので、その程度にしか思っていない。伏魔殿に陥ることは恥ずかしいことなのだと思う。陥りかけた時にでも口外するのは恥ずかしいだろう。しかし、外に漏らしてしまう人はどうしてか憎めない。誰でも彼でもと言う訳にはいかないが、憎めない事例を見たことがある。そこに好感でさえ持った。おかしい。これはおかしなことである。

電車は生まれ育った処へと向かっていく。あと三駅で三回目の乗り換えである。横浜の奥地で生まれて育った。親父に言わせれば横浜のチベットらしい。五年間、滋賀県に住んでいた私に言わせればチベットでもなんでもない、ただの神奈川県の欠片である。勤め始めて三ヶ月と少しが経つ。職場の雰囲気はほどほどに良い。一緒に働く人たちにも慣れてきた。とは言え、塾なんぞ教室に入ってしまえば同僚も上司も何もないのだ。お客様である生徒しかいない。だから楽だ。この仕事は楽だ。他の仕事のように悩ます人間関係も薄っぺらく、お客様の満足さえ叶えてしまえば良い。塾は学校と違って選択して来ているのもいい。学校より幾分かモチベーションも高い。学校の教師は大変そうだな、と思う。思いつつ教職の単位をせっせと集めている。きっと生徒は先生を人間として見ず、保護者も同様の態度なのだろうなと思う。金を貰うためには低く見られることがついて回るのだろうか。
電車の中で家計簿を付ける。捨てるべきレシートを捨てやすいようまとめておく。乗り換えも済ませ、もうあと一駅で降りなければならない。
お腹が空いた。朝も昼も食べたというのに。生き物であるというのは面倒だ。食べ物を食べていなくてはならない。面倒だ。だから時間が何かとかかるのだ。降りてから何を食べようかな。